2010年9月27日月曜日

時代錯誤な中国?!

連日,尖閣諸島問題にかかわる報道がなされています。
中国人船長逮捕,釈放を求める中国人のデモや暴動行為,不可思議な釈放,法治国家らしからぬ日本の判断・・・,さらには中国側の横暴とも言える謝罪・賠償請求。

テレビ番組でコメンテーター各氏が述べられるように,沖縄地方検察による突然の船長釈放は,法治国家の根幹を揺るがす重大な判断であったと思います。
そもそも,中国人船長は海保船への追突という公務執行妨害で逮捕・取調べを受けていたわけですから,証拠不十分で不起訴はあり得ないし,最低でも罰金を払って釈放されるところでしょう。
それなのに,検察の会見では,「日中関係を考慮しての措置」みたいなことを釈放の理由として挙げていました。たしかに,一般の日本人として中国との友好関係を保ちたいという気持ちは解かります。今や,年間何十万人もの中国人観光客が訪れるご時世であり,アメリカを抜いて最大の貿易相手国である中国です。できれば,トラブルは起こしたくない,仲良くしたい,といったところでしょうね。

そういう人道的理由を差し引いても,検察の立場で「日中関係」発言はまずかったと思います。外交関係について方策を考え実行していくのは政府の仕事であり,政治の力です。
検察庁の仕事は,法の下に事実関係を調査し,法に触れる行為があれば責任の所在を明らかにするところまでです。政治を考えての判断などあり得ないし,してはならないことです。
別のことに置き換えて考えてみると,ある事件が起こり犯人を逮捕したけれども,政治の力でもってもみ消して犯人を無罪放免としてしまった,ということとほぼ変わりません。

そこまでして釈放したのに,今度は「国としての正式な謝罪と賠償を請求」する中国側。
日本としてこれを受け入れることは,到底できないはずです。
謝罪することは,尖閣諸島は中国の領土だと認めることになりますからね。
中国は次の手として,経済制裁ともいえる「レアアース輸出禁止」という切り札を出してきました。
中国人観光客の渡航も禁止しました。
本当に時代錯誤も甚だしいとはこのことです。

中華人民共和国は,強烈な中華思想に基づく共産主義?!国だということをつくづく感じさせられています。そもそも民主主義国ではないところに限界があるのはわかりますが,共産主義国も時代の変化に伴って成長して欲しいものです。

尖閣諸島問題について,詳細はこちらをご覧ください。
http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/

2010年9月26日日曜日

「公民的資質」って,「市民的資質」とどう違うの?

初等教育に携わる者,特に小学校の教師ならば,必ず耳にしたことがある言葉,「公民的資質」
社会科の究極目標は,戦後社会科の創設以来変わらず「公民的資質の基礎を養う」ことにあります。
しかし,今回の学習指導要領改訂では,「公民的資質」の意味合いが「市民的資質」にシフトしているように思います。解説編を読んでいると,市民という言葉があちらこちらに登場することに気付きます。

そこで,「公民的資質」と「市民的資質」の違いについて,簡単にまとめてみたいと思います。

1969年版『小学校指導書 社会編』では,「公民的資質」について次のように示している。
  「公民的資質というのは,社会生活を送る上で個人に認められた権利はこれを大切に行使し,互いに尊重し合わなければならないこと,また,具体的な地域社会や国家の一員として自らに課せられた各種の義務や社会的責任があることなどを知り,これらの理解に基づいて正しい判断や行動のできる能力や意識などを指すものである。したがって,市民社会の一員としての市民,国家の成員としての国民という二つの意味を含んだ言葉として理解されるべきものである」とある。
  つまり,「公民」とは,市民社会の権利主体である「市民」と,国家の一員として果たすべき義務を背負った「国民」という二つの概念のバランスの上に設定されていたと言える。

  市民とは,認められた権利をもち,誰もが対等な立場で社会的決定に参加することができる一方で,様々な義務も負わなければならない存在である。これは,国民についても共通していることである。両者の違いは,「市民」は,その社会に属するすべての構成員を指すのに対して,「国民」は国家という政治的な枠組みによってその範囲が限定されることである。

具体例を挙げて言えば,あるところに住んでいる外国人は,自分の生活圏であるごく身近な社会に在っては,地域社会を形成する成員=「市民」である。外国籍であろうとなかろうと,皆と同じように地域行事に参加できるし,地域のルールに従ってゴミ出しも行わなければならない。その一方で,国籍が外国だと日本の「国民」としては認められない部分もある。例えば,選挙権・被選挙権などは,日本国籍の者でないと認められない。これは,国家という政治的枠組みがあるからである。
つまり,「市民」が特に枠を設けない開かれた存在であるのに対して,国家という枠によって規定されているのが「国民」と言える。

現代社会は,国際化,地方分権化,高度情報化が急速に進む社会であり,それに伴い人々の価値観も実に多様化している。このような中で個々人は,社会的な問題について,事実関係を認識し状況を把握した上で,優先したい価値に基づいて判断を下さなければならない。さらに,個人の価値判断の結果は,より多くの人々により社会的・公共的価値に照らして全体で調整され,望ましい方向へと改善されていくことになる。

このような社会にふさわしいのは,国家という枠にとらわれることなく,開かれた認識・価値の形成を保障する「市民」の育成であると考える。また,社会科の目標は,戦後の社会科創設以来「公民的資質」の育成とされてきたが,今回の学習指導要領改訂にもみられるように,「市民」として社会を形成・参画できる資質の育成を目指すのであれば,「市民的資質」と呼ぶ方がより的確にその理念を表していると言える。

以上のようなことを踏まえ,学校教育においては,実際の社会が形成されるプロセスと同様の原理で,発達段階に応じた授業を行うことにより,求める「市民的資質」の基礎を育成しなければならないと考える。


 ※参考文献
  文部省,1969,『小学校指導書 社会編』。
  文部科学省,2008,『小学校学習指導要領解説 社会編』。
  桑原敏典,2004,『小学校社会科改善への提言-「公民的資質」の再検討-』日本文教出版。

 今回は,いくつかの文献を基に,かなり強引にまとめてみたが,もちろんこれはあくまでも解釈論ですので,批判や反対意見等いただければ嬉しく思っています。

2010年9月23日木曜日

大人にもおススメ,「池上彰の学べるニュース」!!

書店に行くと,売れ筋ランキング上位(ちなみに,今は暫定1位)に入っている本が,「池上彰の学べるニュース」です。毎週水曜日に放送されている番組+アルファをまとめたのが,この本です。
もちろん,私も毎週欠かさず視聴しながら録画しています。

この番組のよさは,大きく次の3つです。
1.旬な時事問題を扱っていて,しかも社会科の教材として使えるものが多い。
2.自分の誤った認識に気付くことができる
3.ボードを使ったり実際の映像を交えたりと視覚的な工夫がなされ,分かりやすい。

昨日は3時間スペシャルでした。
日本銀行の役割やらアフガニスタンやら,生物多様性条約・・・盛り沢山の内容であったにもかかわらず,不思議なことに中身はしっかりと頭の中に残っています。
それに,「目から鱗」の話がいくつもあり,自分自身が少し知的に高まったような気がして嬉しくなりました。「よし,次回も確り視聴するぞ」とやる気が出てきました。

分野やジャンルを問わなければ,知的欲求というものは,例外なく誰にでもあるものです。
その知的欲求が満たされ,自分自身が知的に高まったと思えることで,さらなる欲求なり追究心なり生まれてくると思います。
大人も子どもも同じです。

となれば,学校(教室)では,少なくとも社会科では,旬な題材,子どもが食いついてくるような題材を使い,知的欲求をくすぐり,ある程度満たしてやりもっと知りたいと思わせるような授業を展開したいものです。
ここで,重要なポイントは,「自分はちょっと頭がよくなったなあ」と喜ばせることです。

人に物事を教えるということに関して,当番組に学ぶことが多い今日この頃です。

2010年9月20日月曜日

「学校ICT化論」と学力

近年,デジタル教科書の導入の検討が盛んに行われています。
既に,100校を越える全国の学校で試験的に導入,検証されているところです。

この件に関するシンポジウムの様子が,昨日の某新聞の一面に掲載されていました。シンポジストは,文科省関係者,ICT推進派の大学教授(もと小学校教諭),経済関係者,情報・数学関係の大学教授,そして教科書会社取締役。
それぞれの立場から,学校のICT化の必要性と危険性等について発言があり,ほぼ想定範囲内のものでした。
結論を一言で言えば「適材適所」ということでしょう。

現代社会において,ICTの利便性,有用性,必要性について否定する者は,もはやいないといっても過言ではありません。
「国家の品格」の著者であり,このシンポジウムで基調講演を行った藤原正彦氏でさえ,ICTの存在価値は十分に認めるところのようでした。
ただ,いつも傍若無人に極論を言い放つ彼の言い分というか,考え方の面白いところは,学校に限定されない,もっと大きな教育という目で「ICT」を捉えているところです。

相変わらずの毒舌ぶりだったろうことは想像に難くないところです。
「コンピュータがどうこう言う前に,本。本に手をのばす子どもを育てれば,能力や意欲・態度が身に付き,結果としていじめや学級崩壊やさまざまな問題が解決するのだ」と。
当たらずとも遠からず,やはり藤原氏らしい論の展開で思わず笑ってしまいました。

シンポジストの方々の発言を読んで,子どもの学力について,社会との関係の中でもう一度捉え直す必要があると痛烈に思いました。

2010年9月18日土曜日

政治・経済の学習の題材が満載のこの時期

民主党代表選挙は,菅氏の圧勝に終わりました。
世論を味方につけて勝利を勝ち取ったといったところでしょうか。
「総理大臣がころころ代わるのは好ましくない」「政治と金の問題については,クリーンであらねばならない」といった世論の声が多かったようですが,確かにその通りだと思います。
そういう意味では,市民の意思が反映されたという見方ができるかもしれません。

しかし,私の中には,次のような疑問が残ります。

政治のプロである国会議員からの獲得票はほぼ互角,勝敗を大きく分けたのは,党員・サポーター票でした。
投票前は連日特番が組まれ,選挙戦の様子が報道されていました。その中で,党員・サポーターの声を聴いていると,候補者の人柄や選挙戦法,いろいろなしがらみなどといった声は聞こえてくるのですが,肝心の政策についての意見はほとんどありませんでした。

このような状況で,一票(1ポイント)を投じるのか・・・,と思いました。
もちろん,候補者の人格や特性も大事です。人の上に立って人を動かすことによって,国を動かしていくのですから。
ただ,彼らは政治家です。日本社会が抱える,直面する問題を,どのような政策によって改善・解決していくのか,具体的に示し,人々にイメージさせることができるのか,それこそが最も大事なことだろうと思います。

逆に言えば,選ぶ側つまり私たち市民が,政策で人を選べるように,成長しなければならない,ということになります。
党で,人で,しがらみで,一票を投じるような選挙民から脱却しなければならないと思います。

ある学者いわく,「国民は成長しないものである」と。
私は,そうは思いません。
歴史的にみて,政治や経済は,流れというものがありますし,多くの時間・人・費用等がかかる分,そうそう簡単に一気に変わるものではないでしょう。
しかし,個人の意識や意欲は,急に変えることができます。思い立ったら今日からでも可能です。

市民の意識改革こそが,政治を変え,経済を変え,日本を変えていくのだと信じます。

2010年9月14日火曜日

三者ともに,お見事!!

8月のある日曜日の午後,駅前で署名活動が行われていました。
拡声器を使って,必死に市民に呼びかけていたのは,県弁護士会の弁護士さんたちでした。
足を止めてその訴えに耳を傾けてみると,主な内容は次のようなものでした。


日本は,先進国の中でも,「人口に対する弁護士数の割合が低いという問題」を解決するための方策として,数年前に司法試験制度が変わった。
法科大学院を修了することを受験資格として義務付けたり,試験そのものも比較的簡単にしたりした結果,旧試験制度の頃とは比にならないほど合格者数が増えた。
しかし,新制度のもとで受験できるチャンスは3回しかない。
しかも,司法修習生に国が給与を支給する「給与制」は10月末で廃止し,11月からは国が資金を貸与し無利子で返還させる「貸与制」に切り替わることになっている。

弁護士の数は増えても,結局のところ仕事は,経験豊富な有力弁護士事務所に集中することが多いので,頑張って一代で弁護士になった人のもとへはあまり仕事は回ってこない。
つまり,二世弁護士以外は,なかなか厳しいというわけだ。
そういう状況なのに,国は「給与制」から「貸与制」に切り替えるという。
これでは,本当に優秀な弁護士,有望な弁護士,正義感溢れる意欲的な弁護士が育たなくなってしまう。
何としても,「給与制」の維持を求め,改正案を国会に提出し成立させて欲しい。


確かに現行の法制度では,そもそもの問題の解決には結び付かず,かえって別の問題を引き起こしてしまうだけではないか,と訴えを聴きながら思いました。
そこで,一市民として署名に協力し,頑張ってくださいと伝えてその場を去りました。

今朝の読売新聞に,「司法修習生の給与継続」という記事を見つけました。
おそらく,先日のような署名活動が全国の都道府県で行われ,集まった署名を日本弁護士連盟が政府に提出し,その訴えが認められたのでしょう。
「政策調査会の了承を経て,議員立法による裁判所法改正を目指す」とありました。

制度・政策は,よりよい社会をめざして常に見直されつくり変えられるものであり,社会の在るべき姿とはそういうものでなければなりません。
これぞ,社会形成教育の社会科がめざす姿の1つである,と思いました。

日弁連の方々,署名活動に協力した市民,訴えを受け入れた政府機関,三者ともに見事であったなあと微笑んだところです。

2010年9月11日土曜日

まもなく民主党総裁選ですが

このような旬の材料を使って,授業をつくると面白いと思います。

一市民として,党や人や学歴で選ぶのではなく,政策で選ぶことができる,よき選挙民を育てていくことは,社会科教育の責任範囲だと思っています。

例えば,K氏とO氏,二人の候補者が掲げる政策の特徴と要点を簡潔に示した上で,まずそのメリットとデメリットを指摘させてみます。
そして,どちらの政策が国民全体の利益につながりやすいと考えられるのか,根拠をもって述べさせるのです。

そのためには,日本社会の現状(問題点)をある程度理解していなければ話は深まりません。話し合いの前に,現状把握です。
もちろん,十分な現状把握をするためには,日頃より社会の動きに目を向け関心をもっておく必要がありますし,家庭でもそのような話題について対話しておく必要があるでしょう。

ただし,何のきっかけもなく,子どもが自ら進んで,自然に,そのような動きをするとは思えません。そこには,仕掛けが必要となります。
それを,社会科授業で行うのです。

テーマについて,新聞をはじめとするマスコミ情報や書籍,生の声など,情報(知識)を使って思考・判断し,それを対話によって他者に伝える。
このような学習を経験させることで,思考・判断力,価値判断力,表現力,意思伝達力,人間関係形成力・・・と様々な力が身に付いていくでしょう。
また,このような学習を仕組むことは,単に能力面育成だけでなく,態度(資質)面を育成することにも大いに貢献するものであるはずです。

子どもたちは,身近な問題であるにもかかわらず,なかなか身近に感じることができません。
それは,仕方がないことではあります。
なぜなら,子どもは働いているわけではありませんから,自分でお金を稼いで生活しているわけではないのですから,切実な問題になりにくいのです。
ならば,切実に感じさせるような手だてを講じなければなりません。

それが,社会科授業であろうと思います。